8月18日
「婦人が生まれる、妙齢になる、人の家に嫁ぐ、子を持ち、遂に老婆となる、これ経糸(たていと)のようなものであります。しかし経糸ばかりでは織物はできません。…日々の心得という緯糸(よこいと)をおさに入れなくては完うしません。…日々の心得という糸は、…謝意の念であります。」(新渡戸稲造『婦人に勧めて』)
・デカルトが「われ思う、ゆえに我あり。」(je pense donc jesuis.)なら、新渡戸は、「我あり、ゆえに我感謝する」(je sui, donc je remercie.)なのだろう。
・織物の経糸と緯糸の話では、新渡戸はこんな事も言っている。「婦人が偉くなると国が衰えるなどというのは意気地のない男の言うことで、男女を織物に例えれば男子は経糸、女子は緯糸である。経糸が弱くても緯糸が弱くても織物は完全とは言われませぬ。」(1918年東京女子大学開校式式辞)
・今上陛下も、織物と糸を比喩にご感想を述べられたことがある。2018年、皇太子として最後の海外訪問先フランスからご帰国された後、日仏交流に関して、「多彩な色の糸が織りなす美しい織物に発展しつつあることを、とてもうれしく思います。」とおっしゃった。
・「絹であろうと綿であろうと、また合成繊維であろうと、様々な個性豊かな糸を紡いで一つの作品ができるように、人の社会や人生も、そんなふうにたとえられるのでしょう。……日本語には「歴史を織りなす」という言葉がありますが、オリンピックの第一言語であるフランス語にも、「友情関係を織りなす(tisser les liens d’amitie)」という表現があります。」(鈴木くにこ『日本綿業倶楽部月報』2019年9月)
糸巻から繰り出されてくる長い縦糸を時間軸に例え、次々に杼から引き出される横糸を日々の心得に置き換えたのだろう。
返信削除古くから縦糸が糸巻から長く繰り出されるのは変わりないが、昔は杼から長い糸が繰り出されながら縦糸の間を抜けていったものが、今や連続した糸ではなく、1回づつ横幅分に切断された横糸が水流や気流に乗せて飛んでいる。まあ横糸は1回織る度毎のもので、繋がっている必要はないのである。だから日々に例えられるのだろう。都度だからだ。
ところで、このように縦糸と横糸を交互に重ねて作るものが織物である。これに対し、輪を作りながら、次々に輪を組み合わせてゆくものが編み物である。編み物には糸に縦横の区別はない。行きつ戻りつ、現代の人生はむしろ編み物になっているのではないか。生死だけはあるにせよ、終身雇用もなくなり、社会人教育も一般的になった。そして婚姻も、であろう。
もう一つ、不織布がある。フェルトも似たようなもので、短い繊維をランダムに絡み合わせている。縦なのか横なのか区別はない。転職や副業が多い時代である。沢山の糸が皆、絡みながら一枚の平面を、そして時に立体を作る。
人生も色々あってよかろう。それぞれ使い勝手があってよい。
絹や麻は繊維が長い。化繊も液体を繰り出すから長くなる。あえてスフのように短くすることもある。毛はものによるが、綿や短毛は繊維が短いから、強く早く撚りを掛ける。長い繊維はしっかりした布になる。短い繊維は独特の風合いがでる。皆、出自が異なるが、性質に合わせて加工され様々に役立っている。人の世も似たようなものだ。