8月19日
「彼のために尽くすのは自分の責任だと思い、成すべき事を成したものと思えばよいのであります。された方ではその志を多として、感謝すべきものであります。…自分のした事を恩にきせるというは宜しからぬことです。」(新渡戸稲造『婦人に勧めて』)
・自分は感謝をするが、人からの感謝は求めない、自分は人の為に尽くすが、人からの恩は求めない、それが新渡戸流の生き方のようです。「恩着せがましくしない」、「恩に報いる」ことを人から期待しない、見返りを求めない真の愛情、ということでしょうか。
・「恩を仇で返す」ことはもっての他。それなら、恩は受けっぱなしのほうが良い。
・人を助けたり、人に良くしたりすることは当たり前の事。だから見返りはいらない。感謝の言葉を頂けたら嬉しいが、なくても構わない。
・お医者様や看護師さんに親切にされ感激した。仕事だから当たり前と言われたが、仕事でも笑顔でやる人とそうでない人がいる。
・「情けは人のためならず」、まわりまわって自分に返ってくるものかも。だから、やるべきことを毎日、淡々とやっていれば、それで充分、神様は見ている、というのが新渡戸の考えであろう。
尽くすということについて、啓典の民にとっては喜捨の考えが強い。特に貧しいものに寄付するのは神との契約による義務となり、受けた方は当然のこととして、あまり感謝しない。仏教では施しの考え方に基づいている。施すことで功徳を積み、より仏への解脱に近づくことができる。つまり修行だろうが、巡り巡って自らに返ってくるということだろう。施された方にすれば修行させてやったということになる。支那では儒教や道教などの影響が強いが、基本的には先祖崇拝に基づいて親族意識が強いから仲間内へ尽くすのは自らに尽くすことと同一視しているのかもしれない。殊に中国人は儒教の孝の教えにより、身内の年長者に対しては積極的に尽くすが、仲間ではない者には冷たい。日本ではどうだろう。神道はどうかというと経典がないのでわからないが、支那も含めた東アジアでは先祖崇拝が強い上に、やはり儒教の影響を受けているから同族意識となるのだろう。仏教の影響も受けているので更に複雑であり喜捨的な考え方もある。恩に着せることを戒めるのは共通しているものだが、受け手が感謝すべきかどうかは大きな違いがある。新渡戸が感謝すべきとするのはキリスト者らしくない発想である。武士道なら忠義の関係と、恥の意識だろうが、尽くされた者が上位者なら忠義に報いるということになる。半面、貧しいものが尽くされるのは恥という意識にもなる。新渡戸の言葉は、いったい、どこから来たものだろうか。
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